● 模擬原子爆弾 [31]


     ● 私達が住むこの町に戦時中、模擬原子爆弾が投下されたのをご存知でしょうか。 我が家から北約500mにある北田辺に模擬原子爆弾が投下されたのは1945年(昭和20年)7月26日9時26分。米軍のB29爆撃機が高度2万9千フィートから大阪市東住吉区・田辺小学校の北側に大型爆弾を一発だけ投下し、急反転して大阪湾を南へ抜けて行ったそうです。   

     その大型爆弾!!原子爆弾を模した5トン爆弾で原子爆弾投下の訓練だったそうです。そのときの被害は死者7人、重軽傷者73人、倒れた家485戸、被災者1645人。そして、この投下の11日後に広島に、14日後に長崎に原子爆弾が投下されました。これが原子爆弾だったら大阪は壊滅、そして私たちは爆心地近くに住んでいた事になります。  
     この爆撃で亡くなられた方のご子息が建てられた碑がこの地にあります。 
    (模擬原爆追悼碑は令和元年(2019年)5月末マンション建設に
       伴い恩楽寺(田辺1-14-18)山門に移設)

     ● 模擬原爆は長く歴史に埋もれた存在でした。原爆投下を成功させるため長崎に投下された原爆と同型、同重量の約5トンという巨大爆弾を大量の製造し日本への空襲の中で原爆投下の訓練をしたのです。こうした隠れた事実を広く知らしめ、広島・長崎の原爆投下を身近に感じて、この悲劇が繰りかえされないことを祈願して、田辺に模擬原爆が投下された日時に合わせて追悼式を行っています。   出典:総務省ホームページ 
     
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     追記:戦時中、空襲の激しかった大阪・八尾の大正飛行場は戦後、昭和20年(1945年)米軍に接収され、その後 阪神飛行場と改称される。
     昭和29年米軍から日本政府に返還され、昭和31年から八尾飛行場として運用が開始されました。この滑走路は戦時中には多くの若人が戦闘機に乗って日本の防衛・迎撃に離陸して行ったのです。
     この八尾飛行場(現・八尾空港)の滑走路を使って自分は戦後、パイロット免許を得る為に操縦訓練を受けました。飛行機の操縦を指導して頂いた教官はゼロ戦の元パイロットでした。そしてもう一人は皮肉にも米国人(英会話をした初めての外国人)で、このお二人に操縦を習い、小型飛行機のライセンス(自家用操縦士技能証明書、通信士技能証明、航空無線通信士)を習得しました。
     この空港は昭和42年(1967年)には八尾空港と改称されました。
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